経緯は、新入生歓迎会で出会った日に喜多が大学の夜間学部に通っていた後藤を誘い、翌日に確認作業を経てアジカン結成。


後藤:インディーズ時代の自分たちもそうだったけれど、狭い練習スタジオに入ってバンドで「せーの」で音を鳴らしたら、ボーカルって聴こえないんです。叫ばないと曲にならない。だから初期のアジカンがエモいのは当たり前で、それはもう爆音の中でセッションしながら曲を作ってるから、叫ばないと自分が何を歌ってるかわからないからなんです。


後藤正文が語る「もう都会に住む必要はない」 故郷・島田の思い出

紙やメディアに記すことの意味については、ずっと考えているんです。音楽も同じで、例えばOTOTOYで音源を買えば、CDよりいい音質で音楽を楽しめるじゃないですか。じゃあCDで出す理由は何? メディアを実体化することの意味は何だ? という問いが僕の中にずっとあって、その答えは、インターネットより肉体性をもって実生活に飛び出すことなのではないかと。ネットでは検索エンジンにひっかからないと情報を集められなかったり、それなのに目の前の情報に飛び付かないと追いつけないほどのスピード感があったり、広がりがないというか… バグが少ない感じがするんですよね。実体としてある物の強さって、そこにある、否応なくある、というところにある。例えば誰かが喫茶店で「FUTURE TIMES」を読んで、広げたまま店を出ちゃう。次にその席に座ったアジカンのことを全然知りもしないおじさんが、たまたまエネルギーの記事を目にして、「これ、使えるな」と思って手にとる。そういうことが起こり得るのが面白い。実際、南相馬で林業をやっている人がペレットストーブ(木質ペレットを燃料とするストーブ)の記事を読んで「これは私たちでも出来るんじゃないか」と検討を始めたそうで、これってネットの中だけだと起きないことですよね。完全に音楽の現場を跳び越しちゃっている。音楽をやっている人の記事には、やっぱり音楽好きしか集まらないんで。

:僕が島田に自分のスタジオを作っちゃうと、知れ渡っちゃってダメだと思う。市で作るなら全力で手伝いますけど(笑)。多分、親戚とか友達がのぞきに来ちゃって、仕事になんない。空港に行けばわかるけど、静岡の人は「なんだか?」って見に来ちゃうんで(笑)。

後藤 初期の『グミ・チョコレート・パイン』(角川文庫)とかは実体験 ..

後藤:そうそう。Foo Fightersのスタジオに行く前ぐらいからエンジニアとそういう話をよくしていたんです。ギターもピーキーだし、ボーカルも声の高い人が多い。なんで全部上に行くんだろう、みたいなイメージがあったから。低音をもっと出したいと思ってたんだけれど、充分出してるつもりでもやっぱり物足りない。そういういろんな疑問が、スタジオの環境を整えたら一気に見えてきたんです。

後藤:そうなんですよ。それで、いろんな疑問がつながったんです。たとえばFoo Fightersのスタジオでドラム、ベースを録ってる時に、なんで大きなスピーカーでモニタリングするのかというのも、低音が出るからなんです。小さいスピーカーで録るより迫力があって、どう鳴ってるかがわかる。俺たちが思ってる以上に、欧米のロックの人達はボトムを聴いてたんだと思ったんですよね。あとは、個人的に「どうして日本のロックは音が上ずってるのか」っていうことを研究してたのもあって。

「アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文」に人は何を見るだろうか。 青春時代に輝いていたバンド。人気アニメの主題歌。「リライト」。

後藤:そうそう。でも、そういうことをやってるうちに今度は音楽全体で、使ってる音域が変わってきて。ヒップホップとかR&Bとか、アメリカのポップ・ミュージックの最前線の人達がすごい低い音域を使い始めた。何なら30Hzくらいの音が足されてたりして。本当に振動みたいな音が入ってきて、めちゃくちゃローエンドに広がったんです。そうなってくると、Foo Fightersですら若干アジャストできていないくらい、ロックバンドの音作りが難しくなってきた。今まで音楽的にエッジィであること、サウンドがエッジィであることっていうのがロックバンドの面白さだったのに、違う角度から違う面白さが出てきちゃった。

「25歳くらいまでに声がかからなかったら、やめようかな」とあきらめかけていた頃に、今のマネージャーと出会って、メジャーデビューが決まりました。決して早いデビューではなかったし、土俵際ギリギリでしたね。デビューしたあとも、いろいろな音楽を聴いて影響を受けてます。ニューウェイブリバイバルの頃に「ファンクラブ」(2006年発売)を作ったり、海外のインディロックを聴きまくって「マジックディスク」(2010年発売)につながったり。The Streetsやカニエ・ウェストを聴いて、「これからは言葉の時代だ」なんて言って「新世紀のラブソング」(2009年発売)でラップをやったりね。世界の潮流で何が流行ってるのかが気になるし、リスナーとしてもそういうアーティストが好きなんです。ベックなんてまさにそうですよね。Foo Fightersみたいに、スタイルを確立したうえでアップデートしていくのもいいなと思いますけど。その両方を実現させたくて、アジカンとソロの両輪になったんじゃないかな。

最近リリースしたソロ曲「Nothing But Love」に限らず、曲を作ってるときは「ラッパーの言葉遣いに肉薄したい」というテーマがあります。ラップミュージックは世界的な音楽になりましたよね。ただ自分はバンドマンなので、そこに無闇に乗っかってもなという気持ちがあって。例えば、生音の“なまり”と打ち込みのビートを融合させたいなって。その上で、自分なりの歌い方を考えてみようと。「Nothing But Love」のビートは、シモリョー(the chef cooks me)が打ち込んだデモを、skillkillsのドラマー・さとしくんが生で叩いていて。かなりヨレていて難しいんだけど、そのグルーヴを完璧に表現できるんですよね。同じくシモリョーが編集したギターのフレーズを井上陽介くん(Turntable Films、Subtle Control)が演奏して、それもすごくて。ベースもシモリョーが手弾きで打ち込んでいるし、すべて人力なんですよね。今、素晴らしいミュージシャンの助けを借りて、自分がやりたいことを形にしているところです。

アジカン後藤正文設立「APPLE VINEGAR -Music Award-」

Twitterで人を集めましたね。「俺、新聞作ろうかなー」ってつぶやいたら、わーっと反応が来て、取材で知り合った編集者の方が来てくれたり、会ったことのないイラストレーターの方もレスをくれて、作品を見せて頂いて良かったから声をかけていくとか。デザインはアジカンを一緒にやり始めて、途中で抜けてデザインの道に行った大学時代の友達にお願いして、第一号の表紙のイラストはにお願いして。

しかし、デビューに向けて本気で活動することを決め、アジカンのメンバーとして歩みを進めました。


アジカン後藤正文主宰<APPLE VINEGAR -Music Award->が今年も

リアルサウンド テックの連載企画「音楽機材とテクノロジー」にて、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文にインタビューを行った。テーマの中心は、ロックバンドが今の時代に向き合う“低域“についてだ。

ASIAN KUNG-FU GENERATION アジカン 後藤正文 ピック

高校生になるとどんどん洋楽の情報が入ってきました。静岡って実はパンク王国で、90年代の初めにはBad Religion、Green Day、NoFXなどがけっこう流行っていて。野球部の友達から教えてもらった、にら子供というバンドも面白かったですね。曲は「野方一丁目クソババァ Fuck off」とかなんですけど(笑)。「こういう世界があるんだな」と思いました。

高校時代はオールディーズもよく聴いてました。当時流行っていたアメカジから50'sファッションにハマって、ジーンズやスニーカーに凝り始めて。GOWESTのデニムを静岡で買ったりしてたんですけど、その流れで「監獄ロック」「Johnny B. Goode」などが入ったテープを聴いてたんですよ。テープに「Moon River」も入っていて、めちゃくちゃいい曲だなと思ってました。ただ、その頃も自分でバンドをやるという発想はまったくなかったです。パンクは不良っぽくてカッコいいヤツというか、特別なコミュニティにいる人間がやるものだと思ってたし、自分は相変わらず野球部ですからね。音楽は好きだったけど、ただ聴いてるだけでした。

中学まではまったく勉強に苦労しなかったんですが、高校に入るとどんどん成績が下がって。高校の勉強は努力しないとダメじゃないですか。予習、復習なんてまったくやらなかったし、部活がきつくて授業中はほとんど寝てて。中学の先生に「お前は高校生になったら落ちこぼれるぞ」と言われてたんですが、その通りになりましたね。夏の高校野球の予選が終わって「さあ、どうしよう」と。学力的に大学は無理だったし、ファッションが好きだかったら「文化服装学院に行きたい」と親に言ったら、絶対にダメって猛烈に反対されて(笑)。いろいろ考えて、唯一ちょっと成績がよかった生物に賭けようと思って、じいちゃんが農家だったり、じいちゃんの兄弟が農学部の教授だったこともあって適当に農学部に行こうと決めたんですけど、怠け癖が直らず、浪人決定。新聞奨学生として東京の立川に引っ越して、予備校に行くことになりました。

アジカン・後藤正文が設立した“APPLE VINEGAR -Music Award ..

最初に音楽に興味を持ったきっかけは、小学生の頃にカーステレオで流れていた曲ですね。サザンオールスターズ、井上陽水、マイケル・ジャクソンなどがカセットに入っていて、じいちゃんちに行くときなんかにずっと聴いてました。中でもサザンは両親が大ファンということもあってめちゃくちゃ印象に残ってます。特に「KAMAKURA」(1985年発売)というアルバムはよく車の中で流れていて。今聴いてもめちゃくちゃ凝ったサウンドデザインのアルバムなんですけど、当時から「すごいカッコいい」と思ってました。親の車のカーステだからどれだけ音の再現性があったかはわからないですけど(笑)。

テレビの歌番組もよく観てました。ジャニーズが好きで、少年隊の「stripe blue」(1987年発売)なんてぶっちぎりで曲がよくて。光GENJIもデビュー曲の「STAR LIGHT」(1987年発売)から衝撃的にカッコよかった。のちに「あれは飛鳥涼(ASKA)の仕事だったのか」と知るわけですが、その頃はそんなことは関係なくミーハーに飛び付いてました。

初めて自分で買ったCDはTHE BLUE HEARTSの「青空」(1989年発売)。小6か中1の頃、父親が忘年会の抽選会でAIWAのCDラジカセを当てて俺にくれたんですよ。それがめちゃくちゃうれしくて。さらにCDを1枚買ってもらえることになって選んだのが「青空」ですね。本当は「リンダリンダ」とか「TRAIN-TRAIN」みたいな激しい曲がよかったんですけど、すみや(静岡を中心にしたチェーン店)に置いてあるシングルCDが「青空」だけだったので。アルバムは高いから「買って」とは親に言い出しづらくて。THE BLUE HEARTSを知ったのはたぶん、「はいすくーる落書」の主題歌(「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」)として聴いたか、友達に教えてもらったか。最高でしたね。どんな人たちかはまったく知らなかったですけど。

バンドへの興味ということではユニコーンが大きかったです。友達に「服部」(1989年発売)を借りたんですけど「すごいヘンなバンドだな」と(笑)。メンバー全員歌ってるし、「人生は上々だ」なんてどんどんキーが上がって、最後は歌えなくなるっていう。ジャケットは爺さんの写真だし「なんだこれは?」と思いつつ、自分のツボを妙に刺激されたというか。本屋でユニコーンが載ってる「PATiPATi」を立ち読みしたり、表紙のときは買ったりして、どんどん興味が湧いてきて。特に民生さんが好きで「奥田民生ショウ」という本も読みました。その頃は「民生」って呼んでましたけど(笑)。ただのファンですね。民生さんの影響で、中学のときにギターを触ってみたことがあるんですよ。「ヒゲとボイン」(1991年発売)に「風」「風 II」という曲が入っていて。「ダウンタウンのごっつええ感じ」でメンバーが替え歌を歌ってるのを観たときに「これなら難しくないし、弾けるかも」と思ったんです。バンドスコアを買って、親父のギターを弾いてみたんだけど、ネックが反りまくってて全然弦が押さえられなかったんですよ。「これは指が千切れる」と思って、ミュージシャンになるという発想は、弦高が高すぎるMORRISのアコギに弾かれました(笑)。ひょうきんな野球少年だったし、その後もバンドをやろうなんて思ったこともなかったですね。

ASIAN KUNG-FU GENERATION アジカン 後藤正文 ピック

新聞配達はめちゃくちゃ大変でしたけど、そのおかげで東京に出てこられたので今となってはすごく感謝してますね。風呂ナシ、トイレ共同だけど、家賃はタダだし、まかないもあったし、月に5万くらい使えるお金があって、CDもけっこう買えるようになりました。音楽に詳しい友達もできたし、夜中に「BEAT UK」(1990年にフジテレビ系列で放送が始まった洋楽情報番組)を観て「こんなにカッコいい音楽があるのか!」と刺激を受けて。

一番デカかったのは、Oasis、ベック、Teenage Fanclubですね。Oasisは友達に教えてもらいました。最初に聴いたのは、1stアルバムの「Definitely Maybe」(1994年発売)。「Rock 'n' Roll Star」で始まって、3曲目で「めちゃくちゃいい!」と電気が走って。まあ2曲目の「Shakermaker」は、イギリス人じゃないとよさがわからない曲だと思うんですよ。「Rock 'n' Roll Star」はともかく、2曲目が「Shakermaker」なんて、アルバムを売る気あるのかよ!と思いましたけど(笑)、3曲目の「Live Forever」が流れ始めて、リアム・ギャラガーが歌い出した瞬間、完全にヤラれました。ベックは「Loser」ですね。1stアルバムの「Mellow Gold」(1994年発売)はわかりやすいアルバムじゃないけど、「Loser」を聴いたとき「めちゃくちゃ変わった音楽だな」とインパクトがあって。ずっと続いているフォーキーな音楽への興味は、ベックの影響でしょうね。Teenage Fanclubは「Bandwagonesque」(1991年発売)から聴き始めました。彼らはとにかく曲がよくて、「やっぱり洋楽は強いな」と。

浪人時代はライブにも行ってましたね。新宿にあったLIQUIDROOMでReefの初来日、CLUB CITTA'ではFoo Fightersの初来日を観ました。その頃はCLUB CITTA'に洋楽のバンドがよく来てたんですよ。南武線で立川から川崎まで行くので、めちゃくちゃ遠かったな(笑)。RadioheadやWilcoを聴き始めたのも同じ年だし、あの1年は自分の音楽人生にとってめちゃくちゃ重要ですね。初めてエレキギターを買ったのも浪人生のとき。立川の質屋で、アンプとギターのセットを買って。4万8000円くらいだったのかな? よくわからないメーカーだったんですけど、歪んだ音が出せるアンプで、部屋で鳴らしてました。

アジカン後藤による「APPLE VINEGAR賞」ノミネートに長谷川白紙

メンバーの内、後藤・喜多・山田に関してはアジカンが生まれて初めて組んだバンドだったというから驚きですね。

アジカンはOasisの影響を色濃く受けているので、まあ、繋がりがあります ..

2011』」を横浜アリーナにて開催。
■7月30日 韓国 仁川「INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL2011」出演。
■7月31日 後藤正文が編集長を務める新聞「THE FUTURE TIMES」を発行。
■10月12日 渋谷LOOP annex 伊地知潔 PHONO TONES初ライブ。
コスモスタジオ(喜多建介&山田貴洋)
■10月29日 代々木第一体育館「東日本支援ライブ」出演。

後藤さんの日記(移転でリンク切れしてました。ちょっと探してきますが、有料会員しか読めないやつ……?)にあるように、アジカン ..

大学卒業後、後藤は小さな出版社の営業として働いており、この時の経験から裏方の気持ちが解ると語っている。

後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)のルーツをたどる

後藤は「自身のルーツ」として、の「」をあげており、「この曲を聴いてなかったら自分が音楽をやってなかったんじゃないかというくらい」だと述べている。他には、「10代20代の節目となった曲」として、の「I’ll Stick Around」とReefの「Naked」を、「音楽を始めてから影響を受けた曲」として、の「」、の「夜明けの歌」をあげている。「100年後も誰かの心に残っていて欲しい曲」はの「」との「」だと述べている