[PDF] 国際通貨基金の性格 : ドル危機についての予備的考 察
6月下旬、BIS(国際決済銀行)月例会議 に出席した井上四郎日銀理事(後にアジア開発銀行総裁)もBISでの緊迫した空気から危機感を抱いて帰国した。「BISでも日米関係が緊張化している。円問題は日米関係だ。欧州諸国は日本の輸出競争力の増大については観念的な脅威しか感じていないが、米国はそれを肌身で感じ取っている」
ドル危機=国際通貨ドルの凋落 | NDLサーチ | 国立国会図書館
1971年8月15日、米大統領ニクソンが発表したドルと金の交換停止などの措置。それによってドルを基軸とした国際通貨制度が動揺した。
ドイツの国際収支黒字の累積は国内過熱をあおるとともに,ドルおよびポンドに対する思わくを助長する原因となった。したがって,マルク切上げは国内政策手段であるとともに,国際的アンバランスを修正する意味をも持っていた。
【特集 世界的危機後の金融】 グローバル・インバランスとドル基軸通貨体制の行方 ..
ドルの価値が低下した結果、1ドル=360円という固定相場制も見直す必要が出てきます。
1971年、ドル安・円高の実情に合わせる形で、「円切り上げ」が行われ、1ドル=308円に見直されることになりました。
米国は失業(年間550万人)、インフレ、輸入増に悩み、貿易収支はおよそ80年ぶりに赤字に転落する気配が強まり、その元凶は日本と見なしていたのだ。米側の出したシグナルに対する日本政府の反応は、財政金融による景気対策の強化である。だが当時財政でやれることは財政投融資の追加ぐらいで効果はたかが知れている。狙われたのは日銀の公定歩合だ。この公定歩合は5月初めに第3次引き下げを実施したばかり。景気は回復過程(4-6月に底入れ、徐々に上昇中)に入っているというのが衆目の一致するところで、日銀は金融政策上、第4次引き下げの必要はないと判断していた。日銀に拒否されると、景気対策の目玉がなくなる。9月に第8回日米貿易経済合同委員会を控えているだけに、このままでは米側からの円切り上げ圧力をかわせなくなると大蔵省は大慌てにあわてた。国内的にもまごまごしていて実力者、田中角栄通産相のペースにはまり込むのは、何としても避けたい。水田蔵相がある夜、佐々木直日銀総裁を呼び出して直談判し、数少ない金融政策が鈍刀になることを恐れていた佐々木さんを強引にねじ伏せた。
コロナ禍に伴う米国の経済悪化や財政赤字の膨張などを受け、「ドル1強」が大きく揺らいでいる。果たして基軸通貨の未来はどうなるのか。
第4に,世界経済の成長をまかなうべき国際決済手段の量と質についても,多くの示唆を含む問題が発生した。まず1960年後半に,アメリカの金が大量に流出しいわゆるドル危機が発生した。この直接的原因は欧米の金利差およびドル切下げの思わくであるが,その根底には従来のアメリカ経済の絶対的優位性が薄れてきたことが横たわっている。ケネデイのドル防衛は,よ960年末のアイゼンハワー政策のあとを受けてまずその決意を示すことによってドル切下げに対する思わくを封ずる一方,西欧側の協力を得て金利差を調節するという手段を採ったことが一応の成功をみた。しかしドル防衛が成功した反面では,イギリスの国際収支悪化が表面化し,これがポンド防衛の必要を発生させた。国際通貨としてのドル,ポンドの価値がこのように金利や思わくで動かされることに対する反省と,各国の国際収支変動に対するてこ入れとしての国際決済機構の役割に対する認識が強まるにつれて,IMFの強化案も真剣な討議の対象になりつつある。主要西欧諸国は1961年2月いつせいに8条国に移行したが,これは将来の国際決済機構強化のための一つの足がかりとなるであろう。
しかし、ベトナム戦争でアメリカが借金を行い、多額の戦費を費やした結果、ドルの価値が低下しました。
結果、それまで通りに金とドルを結びつけておけなくなったアメリカの結論が、金・ドルの交換停止だったのです。
インフレーションとドル危機 〜 の在庫検索結果 / 日本の古本屋
こうして7月27日、財投の追加から成る景気対策、第4次公定歩合引き下げが決まったのだ。この二週間前、佐々木さんは通貨不安を巡り「ドル切り下げ、金価格引き上げの時、日本としてどうするかが分からない」と行方を案じながらも、公定歩合については「どの程度の心理的効果が期待できるか、ということだ。金融政策が効果のない使われ方をして傷つけられるのを恐れる」と発言したばかりだった。日ごろから辺りをはばかることなくずばずば発言する日銀関係者は、公定歩合引き下げ決定の直前、「政府の施策はお粗末な内容だ。財投追加の効果はすぐに出ない。日銀としてはポリシーミックスの観点が大義名分。効果がなくてもオジヤみたいなものだから、責任は持たなくてよい」と痛烈に皮肉った。
もう一つは、金・ドルの交換停止です。
単純化して解説すると、当時、アメリカのドルは金と交換することができる安定した通貨でした。
そして、多くの国が、ドルと結びつくことで自国の通貨の安定を保っていました。例えば、日本は1ドル=360円という固定相場となっていましたね。
教養としての金融危機 | 第2章 国際金融における「ドル」の役割
ダイエー三和店(神田中通六丁目)には(二日)午前七時ごろから主婦が並びはじめ、午前十時の開店時には三百人の列ができた。(中略)トイレットペーパーは一パック四個入り九十八円という格安さだったが二百五十二個しかなく、一人一個ずつに制限したにもかかわらず五十人近くがあぶれるしまつ。(中略)ニチイ尼崎店(神田北通五丁目)にも約三百人の行列ができたが、売り出し数量は百八十人分。「どうしてもっと売らないの」「そんなに品不足なの」と詰め寄る主婦たちに係員は「また明日並んでください」と汗をかきながら応対…(昭和48年11月3日付サンケイ新聞尼崎版より)
また、11月4日付の毎日新聞尼崎・伊丹版は、2日の騒動でけが人が出た灘神戸生協園田店が、3日のトイレットペーパー販売を中止したと報じました。
しかしその後減少に転じて11月中旬は240億ドルになり、60億ドルの流出を示した。
1971年5月にマルク投機が発生、マルクが変動相場制に移行したことは、玉突きのように日本円を窮地に追い詰める作用をした。円の購買力が高まっているのは事実としても、国内経済界に根強い円切り上げ反対論を無視して切り上げに踏み切る勇気は政治にはない。緊迫化してきた情勢にどう対処するか、何とかして円切り上げを回避したいと政府が6月に急きょ打ち出したのは、輸入自由化の促進をはじめ、特恵関税の早期実施、関税引き下げの推進、資本自由化、資本輸出の促進、非関税障壁の除去、経済協力の促進、秩序ある輸出の確立をちりばめた円対策8項目(総合的対外経済政策)だ。だが自由化などは関係者間の調整が一筋縄ではいかないから小出しにするしかない。一方海外からは円切り上げ圧力がいよいよ猶予ならない事態に突入している情報が次々に入ってくる。6月下旬米国での日米財界人会議から帰国した岩佐凱実富士銀行会長が明らかにした米国内の空気はこうだ。
米ドルは基軸通貨の地位を失わない…脱ドル化が起こらない3つの理由
(尼崎経営者協会常務理事、前掲『尼崎経協』第133号より)
「大企業の下請事業や零細企業の多い尼崎は、その(ドル・ショック、石油危機の)影響は一層深刻で工場街の火は次第に小さくなり企業の事業縮小や閉鎖停止など零細企業は青息吐息の状態。従って市の人口も(昭和)四五年の五五万余人から五三年の今日では五三万七千人と漸減」
東京為替:ドル・円は変わらず、日本株高は継続 | マネーポストWEB
1971年、ドルの流出によるインフレという経済危機に直面したニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止などを主眼とする思いきった経済政策を打ち出し、世界に衝撃を与えた。それをドル=ショックという。
Hiroko Hamada[東京 26日 ロイター] -ドル/円 ユーロ/ドル ..
(平成2年発行、『クボタ100年』より)
石油危機による物不足・物価上昇への対処として、同社は原材料安定調達のため資材部門を強化、営業部門においては納期再検討や販売価格引き上げを行ない、さらには全社的な省エネルギー・省資源対策を実施していきます。
「鉄管・鋳物〔いもの〕の主原料である銑鉄やスクラップなど量的な安定確保と原価低減の重要性が増してきたので、自動車などの大型スクラップを使用できるキュポラの大型化(集中熔解)の検討を進めた。その結果、(昭和)五一年船橋工場に八〇トン、翌五二年武庫川製造所に六五トンの大型キュポラが完成し、主原料の安定的・経済的調達を可能にした」
さらに製造部門の集約化や不採算部門の廃止といった合理化をすすめ、その一方で主力の農機・鉄管に次ぐ新規分野の開拓(住宅建材、合成管、ポンプ事業など)により経営の強化がはかられました。
(注:キュポラとは、材料を溶融〔ようゆう〕して底部から鋳物地金〔いものじがね〕を抽出する溶銑炉〔ようせんろ〕のこと。キューポラとも言う)
米 台湾に速射砲や通信システムなど 3億ドル近く売却決定 | NHK
強まる円切り上げ圧力に対して大蔵省が取った政策は、まず1969年1月からの円シフト(外貨金融から円金融への振り替え)誘導策に始まって対外経済効力の増大、自主防衛力の増強など外貨準備の増加を抑え、あるいはあまり目立たないようにする措置である。だが1970年下期から国際収支黒字幅は拡大して外貨準備が著しく増え、1971年に入っても大幅な黒字基調が続いた。これに反して米国は日本の輸出攻勢を主因に拡大する貿易収支の赤字、失業の増加傾向にいらだちを強めつつあった。そこで出てきたのがニクソン政権の「ビナイン・ネグレクト(優雅なる怠惰)」政策だ。要は国際収支の赤字を無視して景気拡大策を取るということであり、強い通貨は切り上げるべきだという考え方に立っていた。これは国内政策を重視し、ドルのたれ流しを続けることを意味したから、ドルの信認を一層低下させ、国際通貨不安を一段とかき立てる結果になった。この政策は基軸通貨国としては無責任のそしりを免れない。ともあれ、世界経済全体を成長の鈍化、不均衡の拡大、インフレの高進という暗雲が大きく覆いつつあった。
【金融ヒストリ】ニクソンショック #金融危機 #ニクソン ..
1971年、ニクソン大統領が、ドル防衛政策を打ち出し、ドルと金の兌換停止に踏み切ったことは、戦後世界経済のブレトンウッズ体制を崩壊させ、同時に打ち出した10%の輸入課徴金の賦課は、同じく戦後世界経済の原則であった自由貿易主義を揺るがすこととなった。
3万人が那覇市の与儀公園に結集した「ドル危機から生活を守る県民総決起大会」=1971年9月1日
第1にアメリカではケネディ大統領が登場して1961年初頭以来多くの経済政策を打ち出したが,その中心をなすものは高度成長政策であった。短期的な景気政策だけでなく長期的な浮揚力をアメリカに持たせなければならないという認識はアイゼンハワー政権とはかなりきわ立った対照を示している。また国際通貨としてのドルの価値を維持するためにも,短期的に景気を抑制するよりも長期的に輸出が伸長しうるような競争力強化の方がむしろ根本的な解決策であるとの考えがつらぬかれている。イギリスにおいてもほぼ同じ考え方が支配的になってきており,成長問題が,従来成長率の低かった英米2大国において重点的に採り上げられるようになったことはこの期間の大きな特色である。
結論からいえば, アメリカにあっても, 各国の例にもれることなく景気循環と密接な
このような情勢のあとを受けて1962年の自由経済圏の景気を展望すれば,アメリカ経済は順調に拡大をつづけ,西欧は調整期を迎え,低開発国の貿易は先進国の援助の拡大の下に一応順調に伸びるものと思われる。
トルコやアルゼンチンは、貨幣供給量(その国に出回っている通貨や預金の総量、マネーサプライま
この景気対策は大蔵省関係者の間にも批判があった。正式決定の十日ほど前である。大蔵省のドンとも言うべき存在だったOBの石野信一神戸銀行頭取(元事務次官)は「大蔵省はちょっと性急になっているのではないか。公定歩合を下げても効果はないが、円対策8項目の中で自由化などはなかなかやれないから手っ取り早い財政金融ということになるのだろう。社会資本を充実すれば物価も下がる。そういう考え方の転換が必要な時期になっている。行政の総合性が政府には欠けている」と嘆いた。
戦後の国際通貨体制(ブレトンウッズ体制)は崩れ、1973 年までに主要国の通貨は変動
金とドルの交換停止が発表されたことはブレトン=ウッズ体制の崩壊を意味しました。さらに、第4次中東戦争の影響で 第1次石油危機(オイル=ショック) が発生。こうして欧米諸国は経済危機に直面することになりました。